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「Sくんのこと」

Sくんは、中学のときの同学年だったんだけど、いつどうやって友達になり、どのような話をしていたのか、それどころか同じクラスだったのかも、仲が良かったのかも、よく思い出せない。 中学のとき、学校内で「バカ」をやるグループで一 […]

Sくんは、中学のときの同学年だったんだけど、いつどうやって友達になり、どのような話をしていたのか、それどころか同じクラスだったのかも、仲が良かったのかも、よく思い出せない。

中学のとき、学校内で「バカ」をやるグループで一緒だったのかもしれない。

話が脱線してしまうが、私にとっての中学の頃は「ロックとバカの日々」だった。「バカ」とは、一体どんなことをするのかというと、「発酵牛乳」というものをロッカーの中で製造したり(これは、かなり臭い。特に夏期には、教室中に酸っぱいニオイが漂っていた。)、昼休みに屋上で牛乳瓶やバケツで水のかけあいをして、ズブ濡れのまま午後の授業を受けたり、卒業前の終業式の時など、「一生の記念に」と決意の末(笑)、自分の机と椅子を3階の教室の窓から校庭に投げてメチャクチャ怒られたりしていた。

私たちは、本当に大迷惑な「陰気で陽気な」バカだったのだ。

私は、週に何日かは、学校が終わると、新宿西口にある輸入盤屋まで自転車で行き、珍しいけど高い輸入レコードを、買わずに見るだけ見て、帰りにパチンコ屋で落ちている玉を拾ってパチンコをしたりしていた。

他の仲間が、どうだったのかは知らないが、私はそれ以外は何をしたいのかが自分でもよくわからない、どうしようもない中学生だった。

Sくんの話に戻るけど、彼は、小柄で地味な人だった。成績は良い方で、私のように粗雑ではなく、大人しい。目鼻の起伏があまりなく、皮膚が薄くてつるつるしていて、宇宙人ぽい顔の、ちょっと「爺臭い」少年だった。

そんなSくんのことを、私は多分一生忘れないだろう。

その頃の仲間(私も含めて5、6人ぐらいのバカをやる仲間)は、皆「ロック」を夢中で聴いていた。当時聴いていたのは、もうとっくの昔に解散してしまっていたビートルズとか、まだ一応現役だったけど、もう最盛期じゃなくなった、レッド・ツェッペリンとかイエスとかピンク・フロイドなんかだった。

中学生にとって、LP一枚2500円は高すぎるので、だいたい貸し借りで聴いていたのだが、ある時、Sくんに、ピンク・フロイドの「原子心母」を貸してもらった。

Sくんは、ピンク・フロイドのファンで、ほとんどのアルバムを持っていた。私も、ピンク・フロイドは、もうすでに「狂気」とか「炎」(あの頃のロックのアルバムの邦題は、なんというか、とてもカッコ良かった。滅茶苦茶な邦題もけっこうあったんだけど。)で洗礼を受けていたので、それより古い「ウマグマ」とか「おせっかい」とかを聴きたかったのだ。

「原子心母」というタイトル(これは、原題が”ATOM HEART MOTHER”だから、そのまま漢字で書いただけなんだけど、とてもインパクトの強い邦題だと思う。)と、キュート(?)な牛のレコード・ジャケット、それに自分としてはB面の「ほのぼのとした感じ」が気に入ってしまった。

お金をためて自分で買おうかなーとか思っていたら、Sくんが「ゆずってあげるよ」と言ってくれた。(たしか、1000円だったかな…。)

「その前に、録音しておくから一度返してよ」とSくんに言われて、私は「原子心母」を彼に渡した。

その後、一ヶ月ぐらい経っても返してくれないので、おそるおそる催促したら、素っ気なく「もう少し待ってくれ」と言われ、なんとなく気まずい感じになってしまった。

2、3日後、ちょっと不機嫌そうに、Sくんは「原子心母」を学校に持ってきた。

家に帰って、さっそく聴こうと思い袋を開けると、前に借りたときには付いてなかった「タスキ」(人によって呼び方が違うし、レコード文化は死んでしまったので、一応解説すると、日本語盤のジャケットに付いている紙の帯[おび]で、日本語でタイトルやコピー、曲目なんかがかいてある。)が付いていた。

「原子心母」は、Sくんから私に売り渡されたものだから、タスキが付いていて当然なのだが、何かちょっと違和感があったので、よく見てみると、それはなんと「(本物そっくりに見える)手描きのタスキ」だった。

私は、Sくんという人がこわくなってしまった。そういえば、前からマンガとか似顔絵なんかを描いていて上手いとは思っていたのだが、それでも、こういう唐突なことができる人だとは思わなかったし、何より、こつこつと時間をかけ、本物と見紛うようなタスキの複製を、私のために(それは、本当は、Sくん自身のためなのだと、今では思うのだが…)描いている彼を想像してしまったのだ。

私は、その一件以来、なんとなく彼に対する「こわさ」と、それと対比するように、自分がそんなことをまったく知らずに催促してしまったことの「マヌケさ」を感じて、彼とは疎遠になってしまっていた。

その後しばらくして、Sくんは、引越しのため、転校してしまった。

あの時、Sくんに対して感じた「こわさ」や「劣等感」というのは、別な言い方をすれば「恋」なんじゃなかったのかなと、いまにして思う。

同じ感情は、高校の時に同じクラスで席がとなり同士だったAさんという、絵の上手な、そばかす顔の女の子にも感じたし、その後も、私は、恋心を感じたものに対して、例外なく「こわさ」や「劣等感」を持った。

その気持ちを感じる対象は、年齢とか性別とは関係ない。

相手に、その時々で、そういう感情が伝わったのかどうかもわからないが、この「こわさ」と「劣等感」いう感情は、その後の今に至っても、私にとっては特別なものに抱く感情だ。

その後、「原子心母」は、「レコードころがし」(レコードを売って、別のレコードを買うというサイクル。本来は投資目的で行なったりするらしいが、私の場合は単に「もっともっとたくさんのレコードを聴かなければ」という強迫観念のみでやっていた。)の結果、現在は手元にはない。

後に残った、Sくんの作った「原子心母のタスキ」を私は、戦争に行った老人が、戦争なんかとっくの昔に終わったのに、大切に持っている「召集令状」みたいに、これから先、ずっと持ち続けていくのだと思う。

おわり

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