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「デヴィッド・ボウイの歌と立小便」
私は、ツイッターアカウントの肩書きとして「ゆるアナ」を付けている。
「ゆる」は「ゆるい」、「アナ」は「アナウンサー」の意味ではないし、ましてはいやらしい意味などは無く、「アナキスト」の意味であり、「アナキスト」というのは「無政府主義者」のことで、一般的には「暴力をもって、世の中を壊していく」ようなことを考える不届き者のことを指すのだと思う。
現代の先進国で起きているような諸問題は、国家が正しく動いていないために起きていることで、政治や行政が正しく作動しない部分があるのは、その動きを妨げる何かが、その動きを妨害しているからなのだと思う。
しかし、それは「悪意を持った為政者」がいて、それらがほくそ笑みながら悪事を企てている訳ではなく、自分としてはうまく動かすためにしていることが、他者にとってうまくないという情況において、その両者が納得行くような方法が取られずに、力関係で事が為されているからなのだと思う。
それが現状において「おっさん政治」と呼ばれるものがしていることだ。「みんなが納得行く方法なんて無いんだ」という、みんなの暗黙の諦めや同調が、その考えを正当化している。「みんなの意見をきいていたら決められない」→「みんなの意見をきく必要は無い」という飛躍が、今の「おっさん政治」のやり方なのである。
居酒屋に団体で入って注文する場合は、「お任せ」でも構わないかもしれないが、それと同じ方法で、生活や個人の権利に関する重要なことを、一部の人間の意思だけで決められてしまうことは、大問題である。
私は、「国家」や「政府」が不要と考えている訳ではない。「暴力」は大嫌いだし、「国家転覆」なんていう大それたことは、まったく考えていない。それ以前に、自分にそんな力があるわけがない。
ではなぜ「ゆるアナキスト」を冠しているのか?
それは、何とかうまく動いてほしいと自分が考えているものに動いてほしいからであって、ベルリンの壁を壊す手助けをしたデヴィッド・ボウイの歌の百万分の一でもいいから、何かを変えたいと願うからだ。
たしか、赤瀬川原平さんのエッセイだったと思うが、立小便で壁を崩すことを企てている者のことが書いてあった。それを読んだ時に、ぼんやり「こういう方法もアリなんだな」と思ったことがある。毎日同じ場所に立小便をする。それで、小便の成分で壁が少しずつ崩れていくのだ。
日々の積み重ねは、少しずつ何かを変えていく。「ゆるい」けれど、そのやり方は強い。
デヴィッド・ボウイの歌の一億分の一ぐらいの力しかないだろうし、時におまわりさんや壁の所有者に怒られるかもしれないが、そういう方法もあるのだということだ。
それに、デヴィッド・ボウイだって、直接壁を壊した訳ではない。実際に壁が壊れたのは、人々の心の変化と社会主義国家の無能化が、それを為したからだ。壁が壊れた後の「統一ドイツ」にも、いろんな問題があるし、望まれてそうなったのではなく、「そうするしかなかった」のかもしれない。
日々の微々たるアクションが、少しずつ何かを変えていく。それを夢見ながら、できることを無理せずにやっていくという方法。それしか出来ないのだと、つくづく思う。
願わくば、そのじれったいやり方をしているうちに、戦争になることだけはやめてほしいと思う。
(私は「立小便」を推奨したい訳ではない。最後にコメントしておく。)
おわり
私の周りにも、なかなか成果が出ない活動に疲弊したのかどうかはわからないが、陰謀論を語る人が何人かいる。(現に私も、ちょっと前まではそうなっていたし、今でも、陰謀論が間違っているとは思わない。)
彼らの気持ちはよくわかるが、陰謀論を唱え、「何をどうやっても答は既に出ている」という考え方をしてしまうことは、結局、陰謀論に飲み込まれただけのことなのだと思う。
陰謀論にも虚実が入り混じっていて、真実を語っているものもかなり多くあると思うが、選挙結果がすべて不正によりコントロールされているとか、関東に住んでいる人は、確実に放射能の影響で早死したり、子供を作っても奇形児が生まれるとかいうのは、私にはちょっと信じ難いし、第一そんなことを唱えていったい何がしたいのだろうかと思う。
危機感を持つことは大切であり、そういう観点でみれば陰謀論も大切な情報なのだけれど、疑心暗鬼になって何もしなくなってしまったら、元も子もない。
それとも「私は気付いている賢い子」という自己満足とか「巨悪の実体を暴いてやる」っていうヒロイズムとかでやってる訳じゃないよね。
自分の目や耳で確認したのならまだしも、人からの聴き伝(づて)をまるまる信じてしまうというのは、「カルト的」と言わざるをえない。
日本会議が、日本の政治をコントロールしているというのも、たぶん半分ぐらいはホントではあるけれど、CIAとかショッカーのような絶大な力を持っている訳ではない。(このことは、日本会議の研究者、菅野完さんが言われてました。)
彼らの謀(はかりごと)とは、せいぜい神社で「現行憲法が押し付けで、どれだけ問題が多いか」という、彼らの考える「事実」を知らしめるブックレットを配ったり、改憲の署名活動をする程度で、地道なことを愚直にやっているだけのことだ。(しかし、実はそれが最も効果的なやり方であることを、我々は忘れてしまっている。)
不正選挙を防ぐには、安倍さんの親戚が経営しているとかいう、ムサシの集票機のカラクリをあばくよりは、投票率を上げることの方がずっと効果があるし、現実的だ。
今の世の中を息苦しくしているおおもとは、私たちが、方向を間違えずに力を合わせて戦っていけば、いつかは絶対に倒せる相手なのだが、エセ陰謀論に巻き込まれれば、それによって力を削ぐことになってしまう。
陰謀の真贋をきちんと見る冷静な目を持つことは、重要なことだと思う。だから、陰謀論を全否定する気はない。
何よりも重要と思うのは、私たちがどんな社会を望みどんな生活がしたいのかを真剣に考え、それに向けて有効と思われることを正攻法で行うことであり、つまるところ、今できることはそれしか無いのだと思う。
もし、陰謀で潰されそうになったら、こちらだってゲリラ的な陰謀を行えば良いのだ。ベトミンはアメリカ相手にベトナム戦争をそうやって戦ってきたのだ。
当然、そんなことで世の中が簡単に変わるわけではないこともわかってはいる。それは、何十年も何百年もかかることで、実現を自分で見ることはできないかもしれない。それでも続けてやらなければならないのだ。
こんな時代に政治不信になるのは仕方がないが、それでも現代のシステムが政治によって成り立っているものである以上、政治で戦うしかない。 たとえ、その方法に勝ち目が無くてもだ。そもそもこの世の中は、勝ち負けのあるものだけでできている訳ではない。
だから、一見意味がなく思える些細なことであっても、それが有効であれば、傍観するよりは行動する道を、これからも取るつもりだし、行動している者を高みから見下すことはせずに、同じ地平に立とうと思う。
丑年生まれの自分は、クレバーでも何でもないので、そういう愚直な方法しか取れない。
そして、それが最も楽しみながらできることである。(楽しむということは、生きる上で最も大切なことなのだから。)
おわり
Sくんは、中学のときの同学年だったんだけど、いつどうやって友達になり、どのような話をしていたのか、それどころか同じクラスだったのかも、仲が良かったのかも、よく思い出せない。
中学のとき、学校内で「バカ」をやるグループで一緒だったのかもしれない。
話が脱線してしまうが、私にとっての中学の頃は「ロックとバカの日々」だった。「バカ」とは、一体どんなことをするのかというと、「発酵牛乳」というものをロッカーの中で製造したり(これは、かなり臭い。特に夏期には、教室中に酸っぱいニオイが漂っていた。)、昼休みに屋上で牛乳瓶やバケツで水のかけあいをして、ズブ濡れのまま午後の授業を受けたり、卒業前の終業式の時など、「一生の記念に」と決意の末(笑)、自分の机と椅子を3階の教室の窓から校庭に投げてメチャクチャ怒られたりしていた。
私たちは、本当に大迷惑な「陰気で陽気な」バカだったのだ。
私は、週に何日かは、学校が終わると、新宿西口にある輸入盤屋まで自転車で行き、珍しいけど高い輸入レコードを、買わずに見るだけ見て、帰りにパチンコ屋で落ちている玉を拾ってパチンコをしたりしていた。
他の仲間が、どうだったのかは知らないが、私はそれ以外は何をしたいのかが自分でもよくわからない、どうしようもない中学生だった。
Sくんの話に戻るけど、彼は、小柄で地味な人だった。成績は良い方で、私のように粗雑ではなく、大人しい。目鼻の起伏があまりなく、皮膚が薄くてつるつるしていて、宇宙人ぽい顔の、ちょっと「爺臭い」少年だった。
そんなSくんのことを、私は多分一生忘れないだろう。
その頃の仲間(私も含めて5、6人ぐらいのバカをやる仲間)は、皆「ロック」を夢中で聴いていた。当時聴いていたのは、もうとっくの昔に解散してしまっていたビートルズとか、まだ一応現役だったけど、もう最盛期じゃなくなった、レッド・ツェッペリンとかイエスとかピンク・フロイドなんかだった。
中学生にとって、LP一枚2500円は高すぎるので、だいたい貸し借りで聴いていたのだが、ある時、Sくんに、ピンク・フロイドの「原子心母」を貸してもらった。
Sくんは、ピンク・フロイドのファンで、ほとんどのアルバムを持っていた。私も、ピンク・フロイドは、もうすでに「狂気」とか「炎」(あの頃のロックのアルバムの邦題は、なんというか、とてもカッコ良かった。滅茶苦茶な邦題もけっこうあったんだけど。)で洗礼を受けていたので、それより古い「ウマグマ」とか「おせっかい」とかを聴きたかったのだ。
「原子心母」というタイトル(これは、原題が”ATOM HEART MOTHER”だから、そのまま漢字で書いただけなんだけど、とてもインパクトの強い邦題だと思う。)と、キュート(?)な牛のレコード・ジャケット、それに自分としてはB面の「ほのぼのとした感じ」が気に入ってしまった。
お金をためて自分で買おうかなーとか思っていたら、Sくんが「ゆずってあげるよ」と言ってくれた。(たしか、1000円だったかな…。)
「その前に、録音しておくから一度返してよ」とSくんに言われて、私は「原子心母」を彼に渡した。
その後、一ヶ月ぐらい経っても返してくれないので、おそるおそる催促したら、素っ気なく「もう少し待ってくれ」と言われ、なんとなく気まずい感じになってしまった。
2、3日後、ちょっと不機嫌そうに、Sくんは「原子心母」を学校に持ってきた。
家に帰って、さっそく聴こうと思い袋を開けると、前に借りたときには付いてなかった「タスキ」(人によって呼び方が違うし、レコード文化は死んでしまったので、一応解説すると、日本語盤のジャケットに付いている紙の帯[おび]で、日本語でタイトルやコピー、曲目なんかがかいてある。)が付いていた。
「原子心母」は、Sくんから私に売り渡されたものだから、タスキが付いていて当然なのだが、何かちょっと違和感があったので、よく見てみると、それはなんと「(本物そっくりに見える)手描きのタスキ」だった。
私は、Sくんという人がこわくなってしまった。そういえば、前からマンガとか似顔絵なんかを描いていて上手いとは思っていたのだが、それでも、こういう唐突なことができる人だとは思わなかったし、何より、こつこつと時間をかけ、本物と見紛うようなタスキの複製を、私のために(それは、本当は、Sくん自身のためなのだと、今では思うのだが…)描いている彼を想像してしまったのだ。
私は、その一件以来、なんとなく彼に対する「こわさ」と、それと対比するように、自分がそんなことをまったく知らずに催促してしまったことの「マヌケさ」を感じて、彼とは疎遠になってしまっていた。
その後しばらくして、Sくんは、引越しのため、転校してしまった。
あの時、Sくんに対して感じた「こわさ」や「劣等感」というのは、別な言い方をすれば「恋」なんじゃなかったのかなと、いまにして思う。
同じ感情は、高校の時に同じクラスで席がとなり同士だったAさんという、絵の上手な、そばかす顔の女の子にも感じたし、その後も、私は、恋心を感じたものに対して、例外なく「こわさ」や「劣等感」を持った。
その気持ちを感じる対象は、年齢とか性別とは関係ない。
相手に、その時々で、そういう感情が伝わったのかどうかもわからないが、この「こわさ」と「劣等感」いう感情は、その後の今に至っても、私にとっては特別なものに抱く感情だ。
その後、「原子心母」は、「レコードころがし」(レコードを売って、別のレコードを買うというサイクル。本来は投資目的で行なったりするらしいが、私の場合は単に「もっともっとたくさんのレコードを聴かなければ」という強迫観念のみでやっていた。)の結果、現在は手元にはない。
後に残った、Sくんの作った「原子心母のタスキ」を私は、戦争に行った老人が、戦争なんかとっくの昔に終わったのに、大切に持っている「召集令状」みたいに、これから先、ずっと持ち続けていくのだと思う。
おわり
ブログはじめます。
実は、この”Hello World!”というタイトルは、このブログのエンジンであるWordPressをインストールすると、最初にサンプルとして入っている記事のタイトルで、それをそのまま使っています。
“Hello World!”というのは、コンピュータ・プログラマを目指したことのある人だったら、ほぼ誰でも知っている言葉で、はじめてのプログラム言語を習得する場合の通過儀礼である「”Hello World!”と表示するプログラムを作る」の言葉です。
“Hello World!”は、新しい世界へのご挨拶です。
「新しい世界」というものに対しては、様々なことを感じます。
新しい世界についていけない人もたくさんいます。その人達を置いてけぼりにしてしまうような新しい世界は、私は要らないよと思います。
一方、新しい世界を作らなければ、今の世界で息苦しくしている人達は浮かばれません。
この、「置いてきぼり」や「ぎこちない人達」を救うのが、本来は政治の役目だと思うのです。
「政治」というのはプロに任せておけばいいようにやってくれるわけではないということが、最近、身にしみて思うことです。
自分達のことは自分達で話し合い、取り決めを行わなければ進んで行かないし、それは政治家だけがやればいいことではありません。
「楽しいことをするのには手間がかかる」とは誰が言ったのか知りませんが、手間はかけないと面白くないことでもあるのだから、やるしかないのだと思います。
以上、「新しい世界」について考えてみました。 – “Hello World!”